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    かけはし2021年3月8日号

コラム「架橋」


カチン民族との出会い


 2月14日、東京代々木公園で、ミャンマーのカチン民族の方に、12年ぶりに会った。軍部が2月1日にクーデターを起こし、アウンサンスーチーらを拘束し、非常事態を宣言した。それ以来、ミャンマーでスーチーさんらの釈放とクーデターを批判する非暴力抵抗闘争が全土で行われている。日本国内でも、 在日ミャンマー人が次々と行動を起こした。
 デモ出発の先頭にカチン民族の人たちが民族衣裳を着て、カチン民族の旗をなびかせて、整然と整列していた。
 その外側にカチンの彼は立っていた。懐かしくなり、声をかけた。
 「お元気ですか。たいへんな事態が起きましたね」「元気ですよ。スーチンさんが軍部に対して、毅然と対応してこなかったから、こうなる危険性が分かっていたよ。仕事は別の居酒屋の仕事」。彼は在日カチン人のまとめ役のようで、仲間たちに向かって呼びかけていた。
 カチン民族はビルマの北部山岳地帯のカチン自治州を中心に155万人が住んでいる。ビルマ人の9割が仏教徒と言われるが、カチン民族はキリスト教を信奉している。ビルマ政権は英国からの独立後、平野のビルマ人と回りを取り囲むように存在する少数民族の間で、自治権を尊重する連邦制を実現できなかった。カチンやカレンなど、武力紛争が続いた。
 2008年の停戦下でも15歳のカチン女子学生を政府軍兵士が集団強かんし、殺害したことに抗議の声明を出している。
 「ナアパ軍事政権が少数民族の領土で強かんをまるで武器のように計画的に使用していることを国連と各国政府、組織が法に従って措置を取って下さるようお願い申し上げます。……様々な方法を用いてカチン人を殺害し、カチン人女性たちを強かんするなどカチン民族絶滅を図る行為を即時止めるよう、カチン州内に駐留している全大隊・部隊を即時撤退させるよう求めます」(カチン民族機構中央委員会、2008年8月17日)。
 2011年の停戦も2016年には破られ、政府軍の攻撃によって10万人の難民が生まれた。
 日本政府は政治難民をほとんど認めて来なかったが、わずかに認めたのはミャンマーの政治難民だった。そんな事情の中で、カチン民族の人たちが日本にやって来た。
 2008年頃、日本語を覚えるために、東京江東区の自主夜間中学にたどりついた。10人ほどの人たちが熱心に勉強をした。下町フェスティバルに参加し民族の躍りを披露してくれた。この当時も軍制との攻防があり、大使館行動に一緒に参加もした。
 その後、仕事が夜の居酒屋などということもあり、日曜礼拝の後に、自宅で勉強を教えてあげるというスタッフの提案で、江東の自主夜中にはこなくなった。いまカチンの人たちは教会でカチン語の教育を行い、子どもたちに民族の文化・誇りを持つようにしている。生活や旅行、結婚式など強い絆で結びついている。そして、とても優しい人びとだ。
 ミャンマーでは若者たちが命懸けで民主化を求めて闘っている。その中には少数民族の人たちもいる。少数民族の自治・自決権の実現の闘いでもあることを忘れてはならない。       (滝)


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